昭和8年発売のレコード
故:横田良一(芸名:横田良三) |
天草小唄は、牛深出身の歌手である横田良一(芸名:横山良三)さんが歌われています。横田さんは、コロムビアレコードでは横山良三(その他のレコード会社では横田良一)で、おそらく100曲以上のレコーディングをなされています。昭和7年にテイチクからも天草小唄を出していますが、ヒットした天草小唄はコロムビアレコード発売(昭和8年12月)のものです。横田良一さんは26歳の若さで亡くなりましたが、牛深では『横田良一祭り』が行われています。
横田良一伝(浜名志松・著)に天草小唄発売までのエピソードが記載されています。昭和八年コロムビア『天草小唄』発売。さてその資金が幾ばくを要するか、まあ五百圓は要るだろうとの事。レコード会社で自ら企画して全国的に販売して採算のとれるものならとにかく、地方のものでこちらの注文品だから相当の金が要るというのである。そこで私は、歌手の横田(横田良一=横山良三)と二人で熊本電気の上田万平社長を大江町の自宅に訪ねた。二人は力を得て、八幡市に向かった。八幡には郷土の先輩中井励作氏(東京天草郷友会の創立者の一人)が製鉄所長官をしているから、相談したら必ずできると信じたのである。しかし、中井長官は上京中で不在だった。二人はガッカリしたが、元・天草支庁長の鶴田豊氏が戸畑市長をしていたので二人でその私宅に出かけた。鶴田氏も我等の意のあるところを諒とし、翌日五十圓を渡してくれた。これで先ず横田の上京旅費はできた。私と駅で別れた横田は、製鉄所の宿舎に住む親元に帰ってその翌日上京の途についたのだ。八幡で泊まった宿は「とみや」という高級の旅館だった。コロムビアで作曲を古賀政男に依頼するはずだったが古賀は病気でできなかったので大村能章に持っていった。大村氏は天草特有の情調を出すために『ハイヤ節』や『新地節』などのメロディも聞いた上、作曲にとりかかった。そこでA面の『天草小唄(平野正夫作詩)』は横田が吹きこみ、B面『天草民謡(肥前泰隆作詩)』は小倉生まれの小梅にきまった。歌手の横田も作詩の平野も肥前も同年の二十三歳で、小梅は少し上だったかも知れないが同じ九州出身だった。小梅は中井氏なども贔屓にしていたらしい。
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